属性の告白ということ

 

山本周五郎の「内蔵允留守」は、山本周五郎らしさが詰まった、実に小気味の良い作品だ。

 

故郷・近江での剣の修業を終えた岡田虎之助は師匠からの推薦状を携え、東海道を下り、江戸の剣豪・別所内蔵允を目黒の道場に尋ねる。

しかし、生憎、内蔵允は諸国漫遊の旅に出た後のことで留守。しかたなく虎之助青年は、まだ見ぬ師匠が旅を終え戻るまでの間、閑右衛門と名乗る近隣に住む老百姓の家に逗留することとなる。

無為徒食を恥じる虎之助は、老人の百姓仕事を手伝いだす。竹刀をとっては負けなしの虎之助も、鋤鍬をもてば老人に負けてしまう。いつしか彼は、まだ見ぬ師匠・内蔵允ではなく、この老百姓を敬慕していくようになる・・・

 

というストーリだ。

 

中学の頃に初めて読み、その後、時に触れ読み続けてきたこの作品(この作品が収録されている新潮文庫の「深川安楽亭」はとてもよい)が、なぜかここ数ヶ月のあいだ、気になり続けていた。

 

なぜこの作品がこんなに気になるのか不思議で仕方なかったが、昨日、在特会が主催する川崎の街宣/デモへのカウンター行動に参加して、その謎が氷解した。

 

彼らの街宣やデモでの発言に目新しいものはなく、いつものように、目に付く人々のことを、朝鮮人だの左翼だのとレッテルを貼り、ひとりよがりな言辞を弄しているだけだった。 曰く、「有田芳生は朝鮮人」「鈴木寛は中国のスパイ」 (そういえば、さすがにレイシズムに関する質問に「極めて残念」と答弁した安倍首相を「朝鮮人」とは呼んでいなかったようではあるw)

 

思えば、彼ら在特会に限らず、あらゆる差別は、相手に属性に関する告白を強要することから始まる。そしてその告白が得れぬ場合、差別する側は、勝手なラベリングを行い相手の属性を元に抑圧を開始する。明々白々なレイシズムのみならず、セクシャルマイノリティへの差別も、門地に基づく差別も、ビジネスの現場における正規雇用と非正規雇用の差別にしても、「まず告白を強要する」ということから始まる。

 

そう思い至った時、「内蔵允留守」で虎之助が老百姓の魅力をあらてめて思い知るシーンを思い出した。

 

虎之助はこう考える

 

虎之助はふと、もう二十日余日も一つ家に暮していて、まだ故郷の話もしていないことに気づいて驚いた。何処へいってもまず訊かれ、また語るべきことを、閑右衛門の家ではまるでその折がなかった。老人の人柄だ。虎之助はそうおもった。老人は気づかぬところに、そうしたふところの広さを持っているのだ。彼はまた一つ、閑右衛門の心を覗き見たように思った。

 

閑右衛門老人は、どこの馬の骨ともわからない青年を長々と投宿させて、その青年の来歴など一向に気にしない。気にしないどころか、侍と百姓という身分を超えて、教えるでもなく諭すでもなく、虎之助青年を惹きつけ百姓仕事の指導をしていく。

 

これだ。と、思った。

 

人間関係を結ぶのに、本来、相手の属性など全く必要ないのである。来歴さえ必要ないかもしれない。ただ、相手との適度な距離をもち、淡々と接すればいいのである。冷たくする必要もなければ、仲良くする必要もない。

 

 

要は、相手のことを構わなければいいのである。

 

相手の事を知らなくてもいい、友達になる必要もない、敵になる必要もない。 他人は他人。自分は自分だ。

 

 

そんなことを川崎からの帰りの東海道線に乗りながら考え、家について貪るように山本周五郎を読んだ。そして、レイシズムとは真逆の、さらに慈愛とも別の、「ドライで距離感のある淡い人間関係」を目の当たりにし、川崎でみた醜悪な光景との落差に、思わず、泣いた。

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