なぜ日本のメデイアは沖縄を報道する際、不用意にカルトを起用するのだろう?

名護の選挙が気になって仕方ない。

各紙の情勢調査をみていると、どうやら両陣営とも激しい競り合いになっているようで、どの新聞も明確な見通しを書いていない。どの新聞も足並みをそろえて不透明さばかりを伝える選挙情勢分析は久しぶりに見るような気がする。それだけ本当に接戦だということなのだろう。

選挙なので、勝たねば意味がない。

しかも名護の選挙は首長選挙だ。次点当選はありえない。勝者が生き残り敗者が撤退する。極めてシンプルなだけに極めてシビアな戦いだ。

こうなると、沖縄だから、名護だからではなく、どの陣営も必死の攻撃をみせる。相手陣営を貶す怪文書が飛び交ったり、有権者を惑わす謀略が巡らされたりするのは接戦選挙の風物詩とも言えるだろう。繰り返すが、沖縄だから、名護だからではない。北は北海道から南は沖縄まで、日本全国、選挙とはそういうものだし、ある意味では、選挙とはそうあらねばならぬ側面もある。

だから、この選挙に、沖縄の特殊性 名護の特殊性を見出すとするならば、謀略が飛び交うことやデマが飛び交う点ではない。そして、そういうデマや謀略が、党派的な動きから発せられるという点でもない。繰り返すようだが、それらはどの地方の選挙区でも同じように発生しうることなのだから。

この選挙の特殊性は、こうしたデマや謀略が、半ば「当然のこと」として用いられ、そして受容されていることだろう。そしてなんとも不思議なことに、「選挙戦になれば、デマや謀略が生まれ、往々としてデマや謀略は、党派的な動きから生まれる」という、通常の知性を有する大人であればすぐに了解できる認識が、この選挙を見る際、我々の頭の中から綺麗さっぱり消えることだ。

もっと厳密にいうと、両陣営 ーあえて雑駁に書くならば、基地反対派と基地賛成派ー から発せられる、デマや謀略などの数々の「情報戦」を目撃する時、なぜか我々は、基地反対派のそれに「党派性」を感じ、基地賛成派のそれは「党派性からきたものではない」という判断を、無批判に下してしまっている点に、この選挙の特殊性があるのではないか。

いま、私は、不用意に「我々」と書いた。この「我々」という言葉が指し示す範囲をもう少し厳密にしておこう。いま、私は「我々」という言葉に、「一般市民の全員」という意味を込めていない。ましてや、不確かな情報で嬉々としてよろこび、下卑た言葉で腐った知性を飾るネットの有象無象を含めてもいない。

私は、求められるがままにあちこちの雑誌に寄稿し、自分でメルマガを発行し、また自分でも雑誌を編集・発行し、およびがかかれば講演し等々の行為で活計を立てている。私がいまここで使う「我々」という言葉は、私と同じような方途を仕事をしている人、つまり狭義には言論人(しかしこれはなんとも嫌な言葉だ)、広義には出版・メディア産業関係者を指し示している。

過日、とある書籍の企画会議で、担当の編集者がこのように呟いたのを私は確かに聞いた

「沖縄の基地反対運動の現場を何箇所か取材しましたが、いわゆるネトウヨのいう、『暴力的な抗議活動』とかはあれは全くの嘘ですね。そんな事実は存在しない。ネットの情報ってのは実にいいかげんなものなのですなー」

と。

なるほど確かにその通りだろう。

彼は続ける。

「しかし僕この商売をもう20年近くやっていて、いろんな運動の現場を取材してきましてね、だいたいの雰囲気はすぐ掴めるんですけど、あれですね、沖縄の基地運動も、左翼各セクト・党派の草刈り場みたいになってる側面がありますねー」

と。

これも確かにその通りだろう。私はそれを否定し切る材料を持ち合わせていない。

なおも続けて彼はこういった。

「だから、基地反対派の人たちの声を、生の声として、ウチの雑誌や本に反映することはちょっと危ないんっすよねー」

と。

私はこれにも半ば同意する。私と違って彼はサラリーマンである。しかも彼が務める出版社は一部上場企業である。その彼が、自分の奉職する会社の出版物がどんな形であれどの党派によってであれ、ある種の政治的性向のために利用されることは極力避けたいと考えるのは至極当然のことだろうと思う。彼のその防御線の張り方を批判しうるのは、「いますこし、ラディカルであれ」というロジックであろうが、サラリーマンにラディカルさを求めるのは苛斂誅求というものだろう。

彼のこの主張に半ば同意しつつもやはり私は彼に、強く指摘せざるを得なかった。

「なるほど確かにそうなのだろう。では貴方は、逆側の陣営つまり基地反対派を責める陣営について、その党派性やその人間関係を垣間見たのか?きちんと逆側の陣営を分析したのか?」

と。

このような指摘をしてしまったのは、ひとえに私が彼を尊敬しているからである。彼がこれまで出版してきた書籍は確かに全国各地の「市民運動」に材を取ったものが多い。様々な書き手によって書かれたそれらの書籍は、どの書き手のものであっても彼の編集者としての能力のよろしきをもって実に堅実な書籍となっている。一般の編集者には欠ける80年代以降の新左翼運動についての知識もそしてなによりそうした党派の人々との人脈も確かにもっていてその人脈を批判的に検証する冷静さも持っている。その彼が、あたかも彼が「実にいいかげんなものですなー」と蔑む「ネットの情報」の担い手たちと同じように、「基地反対派には党派性があり、その逆の陣営には党派性がない」という前提に立って諸々を語ろうとすることが、私には信じられなかったのだ。

彼ほど優秀かつ経験豊富な編集者からしてこうなのだから、経験の浅い、知識の薄い編集者やメディア関係者ならば、なおさらこの傾向は強くなる。

事実私は、若い編集者や、若いテレビ制作会社の人、若いメディア関係者が無自覚かつ無批判に、「基地反対派の党派性には気をつけねばならない。逆の陣営=反・反基地陣営には、党派性がないので警戒心を緩めてよい」という態度で沖縄の様々な運動を取材し、語り、素材として活用しようとしている現場を数多くみてきた。

これはゆゆしき事態である。

いうまでもなく、反基地運動は運動である。運動である以上、いかに地域住民の自発的な動きから始まったものとはいえ、様々な党派が自分の党派の利得のために、その運動に近づき、あるいは利用するということは、「沖縄の基地反対運動だから」ではなく、「運動だから」という単純な理由で、発生しうる。これは致し方のないことだ。

そしてそれが「致し方のないこと」ならば、その逆・・・つまり、反・反基地運動 側も、同じようなメカニズムが走ると考えるのが自然だろう。そして事実、このメカニズムは反・反基地運動でも発生している。いや、私の観察する限りにおいては、「基地反対運動が、その運動の性格ゆえ、様々な左翼党派により蚕食されている」度合いよりも、「基地賛成運動や反・反基地運動が、その運動の性格ゆえ、様々な保守系党派により蚕食されている」度合いの方が遥かに高い。

そして悲しむべきことに、「基地賛成運動や反・反基地運動を蚕食する党派」が政治的党派ではなく、そのほとんどが、カルト教団であるという点が徹底的に見落とされていまっている。

どのカルト教団がどのようにして沖縄の「基地賛成運動や反・反基地運動」を利用しているかは、私の動画リポートで詳しく解説しているのでそちらを参照願いたい。

本稿を書いている目的はそうした解説を加えることではない。本稿の目的は、我々の仲間ーつまり、物を書き・物を喋りそれを流通させるという職業についている人たちーに、「各々方、ゆめゆめ油断めさるなよ」と呼びかけることにある。

先に書いたように、自分の関係する出版物がどんな形であれどの党派によってであれ、ある種の政治的性向のために利用されることは極力避けたいと考えるのは至極当然のことだ。したがって、「沖縄の反基地運動」に警戒心を抱くのは、職業人として当然のことではある。が、その警戒心は全く同量、「沖縄の基地賛成運動や反・反基地運動」にも振り向けられなければならない。

我々は職業として言論を取り扱っている。自分の信ずるところ、自分の真実と思うところを言葉にし、それを発表し、金銭に変えるという仕事をしている。この仕事に夾雑物があってはいけない。自ら望んでそれにコミットしているケースを別にして、自己の言説が特定党派の利得と結びつくようなことはあってはならない。ましてや、無自覚・無検証に発した自己の言説が、特定党派に結果として利得を齎すようなことがあってもいけない。

ならば、極めて慎重になろう。

沖縄で、反・反基地運動に従事する連中が、いかにファナティックで、オカルトな連中であり、その連中は「セクト」として党派を形成しており、その党派は政治的党派ではなく、「セクト」という言葉の語源どおりカルト教団関係者ばかりであることにそろそろ気付こう。連中はカルトだ。まともな話が通用するはずがない。

「前衛に寄稿し続けて30年です」という人の言説を無批判に自社の雑誌に転載する出版人はいないだろう。

「尊敬する人は、黒田寛一です」という人をテレビで「一般市民」として紹介したがるテレビ人はいないだろう。

しかし、日本のメディア関係者は勉強がたらぬからか、取材力が足らないからか、これと同じ失敗を「沖縄で基地に賛成している人」「沖縄で基地反対運動を苦々しく思っている人」の声を紹介するとき、犯し続けている。

上記のとおり、どのカルト教団がどのようにして沖縄の「基地賛成運動や反・反基地運動」を利用しているかは、私の動画リポートで詳しく解説しているのでそちらを参照願いたいのだが、本稿では「カルトを無自覚に起用してしまう失敗」の事例として、「江崎道朗が『祖国と青年』の編集長であったという簡単な事実さえ見落として、江崎道朗を保守言論人として取り扱うメディア人の頭の悪さ」を指摘しておく。もうこの事実さえ確認できれば、まともなビジネスセンスのある出版人・メディア人ならば理解できるだろう。「ああそうだな。確かに、『解放』の編集長やってました って人は使いにくいわなー」という判断がもし働くのならば、『解放』よりもクセの悪い(というか同列に扱うのは革マルに失礼だな。革マルはまがりなりにも政治セクトだ。祖国と青年はカルトだもんな)『祖国と青年』の編集長など使うはずがないではないか。

もうそうした失敗を重ねるのはやめよう。無自覚に特定党派ーしかも政治的党派ですらない。単なる狂信者集団ーの利得につながるようなことをするのはやめよう。

名護の選挙の結果がどうなるにせよ、月曜日以降の日本のメディアが、これまでのような失敗を繰り返すことのないように、願ってやまない。

 

P.S.
名護の選挙では、デマが本当にひどい。下図参照のこと

デマ訂正情報

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