子供と本と「古参問題」と。

夏休みである。

だからずっと子供が家にいる。家に子供がいると子供の友達が家に遊びに来る。
いかに時代が変わったとはいえ、小学生の夏休みなどむかしから基本的に変わらない。セミを獲ったり、麦茶の一気飲み大会したり、無駄に自転車で遠いところ行ったり、小川でザリガニをいじめたりしている。この辺り、僕たちが子供だった頃と同じだ。
子供の様子が変わらないといえば、僕たちが子供だった頃から、「小学生が読む本」も基本的に変わっていない。一年生のうちの娘は「エルマーと竜」を読んでる。こないだからうちに遊びによく来るようになった近所の小学三年生は「ズッコケ三人組」を読んでる。四年生のうちの息子は江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズにハマっている。畳の上に寝そべって、扇風機の風を受けながらポプラ社の本をめくる姿は、30年以上前の僕たちの姿と全く一緒だ。
試みに「みんなそんな本をどうやって見つけたの?」と聞いてみたら、「学級文庫にあったから」と口を揃えていう。学級文庫のラインナップも僕たちの子供の頃とそう変わらないのだろう。学級文庫の本を休み時間に手にとって2−3行読んでみたら案外面白く、そのまま借りて最後まで読んで、「あー!面白かった!!また次読もう!」と次々と本に出会っていく。。。そういう姿もあの頃の僕たちと全く同じだ。

そんなことを思いながら部屋を片付けつけていると、畳の上に、講談社青い鳥文庫の『吾輩は猫である』が置いてある。誰も読んでいる様子はない。青い鳥文庫の本など僕の本棚にはないので、きっとうちに出入りしてる近所の子が持ち込んだのだろう。誰の持ち物かと聞くと、果たして近所の五年生男子が持って来たものらしい。その子は『吾輩は猫である』を放り出して、うちの息子が読み終わった怪人二十面相を読んでいる。
 
「へぇ 珍しいものを読むね。青い鳥文庫の『猫』まだあったんだねぇ」と感心して聞くと、「つまんない」という。「パパがね、『五年生になったんだからこれを読め』って買って来てくれたんだけど、つまんないの。だから読まない」という。

わかる!!!君は正しい!!

明治末年の最高の教養者たちの会話をトレースし、しかもそれを批評的に笑い飛ばしているのが『吾輩は猫である』だ。そんなものを小学五年生が理解できるはずもないし、理解する必要もない。
「昔、以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華ろかあり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」
などの苦沙味先生の会話のくだらなさを笑える11歳がいる方がおかしい。

にもかかわらず、大人は子供に「吾輩は猫であるぐらい読まないと」とかいう。件の小学五年生君は『モモ』を読んでいたところ、父君から「そんなくだらないものを読むな!」と叱られた上に、『猫』を押し付けられたそうな。これじゃこの子は本を嫌いになるばかりだろう
 
こういう大人がいるのも僕たちの子供の頃から変わらない。
そしてこういう大人はどの分野にでもいる。
 
「落語が好きなんです!」と若いこがいうと「誰が好きかい?」と聞き、「喬太郎を追いかけてます!」と返答しようもんなら「ダメだねぇ。。。古典を聞かないと。小三治聞けよ」とかいう半可通とかね。 別に喬太郎の新作落語で爆笑してたって問題ねーじゃねえかと。
「邦画が好きなんです!」という奇特な若い衆がいると「小津の『東京物語』がね。。。」と滔々と語りだしちゃうオヤジとかいるでしょ?若い衆に東京物語みたいな辛気臭くて難解で凄惨な映画(注:東京物語はホラー映画ですからね、あれ。)を見せたって、映画嫌いになるだけじゃねーかと。
 
こういう連中が、「若いひとの新規参入」の障害であり続けているんだと思う。

本も芸能も技術も何でも一緒。子供や若い衆は、手当たり次第面白いものを面白いと思うままに受け入れていけばいい。
 
僕ら年寄りのやれることってのは、そういう子供や若い衆がのびのびと、本を読んだり、映画を見たり、落語を聴いたりできる環境を整えてやることぐらいしかない。口を出しちゃいけないんだ。ほっとけばいい。ほっときゃ勝手に好きになって、こっちが驚くぐらいの成長を見せてくれる。

ってなことを考えながら、明日また遊びに来る子供たちのために、今から、麦茶を仕込む。

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