僕がフィラーも含めて書き起こす理由

ここのところ、ハーバービジネスオンラインに、「政治家の発言書き起こし」を立て続けに寄稿しています。

バーニー・サンダースがアイオワで語った言葉【演説完訳】

自民党丸山発言と2004年のオバマ演説に見る「政治家たる資質」の差

全文書き起こしで改めて痛感する、おおさか維新・足立議員暴言の酷さ

どの記事も結構アクセス数を稼いでいるようで、編集部の方も大変喜んでくれました。まあ、ログミーみたいなサイトはあるけど、あれ政治家の演説とかはあんまりないし、「英語の演説を全部翻訳する」とかいうのもあまり事例ないから需要あるんでしょうな。

とはいえ、お褒めの言葉だけではありません。読者からはお叱りお声も頂戴します。最も多く頂戴するお叱りが「えー とか あーとかそのまま書きおこす必要あるのか?」というものです。

発言中、「えー」「あー」などの言葉が入ることが誰にでもあります。これを言語学の方では「フィラー」(日本語に訳すと”埋め草”かな?)と言います。確か、テープ起こし業界では、フィラーを「バリ」と呼んでたかと思います。で、フィラーを書かないことを「バリ取り」とか呼んでるはず。話し言葉を文字に書きおこす時、「えー」とか「あー」とか、ない方が読みやすいので、通常はこれを削除します。

しかしこれを僕は一切やりません。とりわけ、政治家の発言起こしをする際は、絶対やりません。

昔、大平正芳という政治家がいました。最近の若い人はご存知ないとは思いますが、試しに、年配の方の前で、「今から、政治家のモノマネをします!」と宣言して、目をつむって「あー。 うー。」とだけ言ってみてください。おじさんおばさんは「大平正芳!」と答えることでしょう。それぐらい、大平正芳は、フィラーを多用することで有名でした。のちに総理大臣になった彼を人は「あーうー宰相」と呼んだほどです。

今書きながら、youtubeを検索してみたら、面白い動画がありました。渡辺美智雄が大平正芳を「あーうーしか言わないから何言ってっかわかんない」と中曽根康弘応援演説で揶揄してますな。これぐらい、大平正芳のあーうーは有名でした。

その大平さん、あーうーと言う理由を、「あー と言っている間に考え、うーと言ってる間に言葉を選ぶ」と説明されておられます。とてもかわいい。

政治家ってそうですな。政治家は言葉の仕事です。同時に、政策を実現するのが政治家の仕事です。言葉で政策を語り、言葉で人を動かし、言葉で実現する。とりわけ、理念よりも情念、賛同よりも嫉妬が基本の日本社会においては、「言葉選び」が重要になります。言葉一つでいらぬ情念を掻き立て、いらぬ嫉妬を生む。政治家はそういう情念や嫉妬を掻き立てたりなだめたり操作するのが仕事です。

大平さんは、「讃岐の鈍牛」(鈍牛とは決してネガティブな意味ではありません。眠れる獅子という感じに捉えたほうがいい)と、当時の自民党内で一目も二目も置かれる存在でした。田中角栄すら一時期は本気で恐れたほどです。一代の傑物と言っていいでしょう。そして大蔵省のトップ官僚だった彼の経歴が示す通り、駿才でもありました。決して、自分の思いを語る時、言いよどんだりするタイプではありません。実際、彼の選挙演説は見事なものでした。大平さんが、「あーうー」というのは、閣僚として、あるいは党の役員として、最終的には総理として、公の場で職責として答弁することを迫られた場に限られるのです。彼は、「あー うー」で人心に嫉妬を起こさせず余計な勘繰りをさせないように配慮したのでしょう。

となると、大平さんの「あー うー」にこそ、大平さんの苦心なり配慮なりが入っていると見なければなりません。大平さんほどの人物の苦心や配慮ならば、もうそれは「政治」そのもの。これは大平さんだけではなく、他の政治家も同じです。とりわけ当選回数の多い重鎮政治家はそうです。日本の政治家の場合、フィラーは軽視できないのです。「フィラーこそ、政治」とも言えなくはない。これが僕がフィラーを削除しない理由です。

フィラーを削除しない理由はもう一つあります。

先日、報道ステーションが、59年前の憲法調査会の録音を発掘し、その一部を放送しました。

https://dailymotion.com/video/x3u90vf

この中で、岸内閣当時、国会で「改憲するべきかどうか」を政治家と学者が議論する生の音声が紹介されています。

僕が驚いたのは、ここに出てくる政治家や学者たちの発言に、フィラーがほとんどないことです。

事例として、報ステが放映した59年前の録音から、改憲派政治家の急先鋒・中曽根康弘と調査会会長の高柳賢三博士(英米法)の議論部分を書き起こしてみましょう

中曽根:異常な状態で作られた、世界でも稀な占領下の憲法という特殊事態を全然知らん連中の話であります。何のためにこれじゃあ憲法調査会が作られたのか、因縁がわかりもしないで、この憲法をどうするかという議論が、始まるはずが、無い。

高柳:えー憲法改正ってのは、子孫に長〜く伝わる問題で、これをですね、我々現代に住む人だけでもって、えー軽々しく決めると、とんだことになる恐れもある。あなたは学者ってのものを非常に軽んじて、政治家の道具みたいに考えておられるけれども、これは、あなた、間違い。

これどうです? 中曽根康弘はフィラー全くなし。高柳さんはちょっとはいるけども、実音声を聞いてもらえば分かりますが、まるで、子供を諭すようなフィラーです。おそらく高柳さんは失礼な中曽根康弘に苛立っていたのでしょうな。

いずれにせよ驚くべきフィラーの少なさです。これ、一番最初にあげたリンク先にある、丸山和也や足立康史の言葉と比べてごらんなさい。一目瞭然です。

注目すべきは、中曽根VS高柳の丁々発止があったのは憲法調査会だということ。国会の通常審議ではなく、審議会に近いものです。いわば平場。そして、丸山の発言も、足立の発言も、それぞれ憲法調査会、予算委員会公聴会と、国会の通常審議ではなく、平場に近い場面。つまり、59年前の中曽根も、現代の丸山も足立も、先述した大平さんの事例のように配慮する必要も何もない場所で生まれた事例なわけです。3つとも全て平場の事例。言いたいことを言えばいいだけって点では共通しているわけです。にもかかわらず、中曽根はフィラーが一切ない。足立・丸山がフィラーだらけなのはご覧の通り。

これは一体どういうことでしょう? 中曽根だけでなく、前掲の動画に出てくる他の人の発言も聞いてみてください。59年前の人々がいかに、正確な日本語を正確な発声で話していたか、よくわかります。どの人の発言もフィラーがほとんどない。そのまま文字に起こしても、完璧に書き言葉として通用する。見事なもんです。

丸山・足立という極悪な事例と対比せずとも、現代の我々が国会中継で観る政治家たちの日本語と59年前の人々が話す日本語では、格差がありすぎる。大人と子供、釣鐘と提灯、月とスッポンです。

確かに、高柳博士の発言には若干のフィラーが入っています。しかし、フィラーの前後で論理の断絶や飛躍がない。

例えば、丸山の発言を見てみましょう。

それからぁえー荒井先生はですね、ぇーとりわけ行政監視ということにですね、参議院の機能を集中的にですね、えぇおくべきだということで力説されたと思うんですけども、まあ巨大な官僚機構ですね、今おっしゃってましたように、このままだと国会まで官僚、ぉ機構に支配されてしまうんじゃないかという、危惧さえ持っておられたとおっしゃってましてですね、私もですね、まああの行政監視委員会があるけれどもこれを拡充してしっかりしたものにするというまぁ理屈はそうなんですけども、あーなんども開けないことがあったとかですね、あぁーあるいは、開いたとしてもですね、ほとんど大した何も実績をあげてないということになるとですね。

あのぉ参議院というのはですね、本当の意味では、こうあるべきだと言ってもですね、基本的にはですね、機能を発揮できない状況にあると、私は思ってんですね。

信じられないことに、「それからぁ」から「何も実績を上げていないということになるとですね。」までが一文です。あーで続けてこれだけの長文が一文です。そして、文章が意味として終わってない。いきなり、「あのぉ参議院というのはですね」と違う話が始まる。「あのぉ」というフィラーの前後で文意がまったく違うんです。日本語も崩壊していれば、論理構造も破綻している。ひどいもんです。

大平さんの話をした時、「政治家は言葉の仕事」と書きました。政治家の仕事道具は、言葉です。言葉で人の命さえ奪うのが政治家です。そして今の政治家たちの言葉は、この事例で見たように確実に劣化しているわけです。丸山でも足立でも、タイムスリップして59年前の憲法調査会に出席する羽目になってあの調子で発言したら、「誰だいこんなチンピラを連れてきたのは?」と皆から石もて追われるでしょう。それぐらい劣化したんです。その劣化度合いを測るのは、丸山の事例でもご紹介したように、フィラーがとても役に立つ。

こうした2つの理由ー「フィラーこそ政治だと思うから」「フィラーで政治家の劣化度合いを測れるから」ーがあって、僕はフィラーを削除しません。これからも、フィラーをそのまま、咳払いもそのまま、文字にして、「政治家が何を語っているのか」を伝えていくつもりです。