「靖國神社問題」はA級戦犯合祀だけじゃない。

靖國神社への天皇陛下ご親拝と首相参拝定例化は、右翼民族派にとっての悲願だ。僕もこの悲願を共有しており、自分が生きている間になんとしても天皇陛下ご親拝の再開が叶う環境を作り上げたいからこそ、いろんなことを書いたりしゃべったりしていると言っても過言じゃない。

その環境作りためには、左右両陣営(靖國神社問題への態度ごときで左右なんて分けるのはアレなんだけどね)にいる馬鹿どもを膺懲せねばならない。馬鹿同士が論争しても周りの人の迷惑でしかないからね。そんな状況で、行幸を仰げるはずがない。

で、僕がいつもイラッとくるのは、「A級戦犯合祀」や「歴史認識」が靖國神社問題の中心トピックであるかのごとく語る人々だ。

確かに、A級戦犯合祀はむちゃくちゃな話だし、僕だって靖國のお社を遥拝するとき「なんで広田弘毅が合祀されてんだ?あいつ文官じゃねーか他の英霊に失礼だろう。ったく、あの松平とかいう宮司は本当に強引な馬鹿だなぁ」といつも思う。

でも、本当に靖國神社問題ってA級戦犯合祀が中心問題だろうか?

例えば、こう考えてみよう。

「東條とかね、ファックですよ。あんなやつ自殺ゴッコしただけで死んでない。生きて虜囚の辱めを受けずって言ってた東條がですよ?」とか「松岡洋介は評価の難しい人物ですが、やっぱあいつダメですよ。あいつが悪い。生きてたら殴ってやりたい」「そもそも15年戦争は日本の侵略戦争。あんな戦争絶対おかしい」と事前事後に一席ぶってから首相が参拝するとしたとしたらどうだろう?

これ、荒唐無稽な話しのように聞こえるけど、荒唐無稽でもない。意外かもしれんが石原慎太郎は靖國神社に参拝するたびにこれと近いことを言いながら参拝している。

で、もし、こんなことが起こったとしたら「A級戦犯が合祀されている靖國神社に参拝するとは、あの戦争を美化している!」と批判する人たちはどう言い返すのだろう? はたまた「首相の公式参拝は当然だ!」と言ってる人としても、こんなシチュエーションにどう対応するのだろう?

つまり、「A級戦犯合祀」は「歴史認識」の問題なんだから、「いや私の認識は東條ファック!広田弘毅はマザーファッカー!15年戦争はクソ 松平宮司はめんどくさいことしてくれた。あのキチガイほんまダメ」という認識を言語化して表明しちゃえば超えられるっちゃー超えられる問題だ。

しかし、超えられない一線がある。

それは、靖國神社が「神社」だということ。そして他ならぬ靖國神社が「うちは神社ですけどなにか?宗教ですけどなにか?」と言い張りつづけているということだ。

2015年を生きる僕たちにはもはや想像することさえ難しい話だけど、戦後の一時期。。。というか、80年代の終わりぐらいまで、あの戦争の犠牲者の遺族はとても大きな社会クラスタだった。遺族たちは遺族会を通じて国会議員を多数排出し、政府や国会に様々な圧力をかけていた。遺族たちが最もこだわったのは、軍人恩給や遺族年金の支給と、「あの戦争の犠牲者をどう弔うか」という問題だった。これは別に問題じゃない。国家のために戦地に赴き国家の名の下に国家のために死んだ人たちなんだから、国家にその後の対応を求めるのは当然だろう。

ことさらに遺族たちが「追悼方法」にこだわったのは、戦後、靖國神社の社会的立場が宙ぶらりんになっていたからだ。GHQがやってくるまで靖國神社は国家の慰霊施設として国家との紐帯を保持していた。しかし、戦後の諸改革で国家神道は解体されその一環として靖国神社は単なる1宗教法人になる。つまり、靖国神社とてそこらへんの新興宗教と法的には全く一緒ということになったわけだ。

これでは「靖國であおう!」といいながら死んでいった人たちがあまりにも可哀想だというのが遺族たちの気持ちだった。これは僕もそう思う。「死んだら靖國で国家が責任を持って追悼される。」と約束して死なせたんだから、その約束ぐらいは守るのが当然だろう。

だから遺族たちは、靖國神社と国家との紐帯を再構築するため、「靖國神社国家護持法」を制定するように国に働きかける。遺族会によるこの法制化運動は2000万筆の署名をあつめるなど、極めて大規模かつ積極的なものだったらしい。

運動のかいあって、1969年にはじめて、「靖国神社法案」が議員立法として国会に提案される。その後も毎年毎年、この法案は国会で議論されるが審議未了で廃案になる。

今の人は「どーせサヨクが騒いだから国会とおらなかったのだろう」と思うのかもしれないが、この「靖國神社国家護持法案」への最大の反対勢力はだれあろう、靖國神社だったのだ。

靖國神社はどうしても

「この法律において「靖国神社」という名称を用いたのは、靖国神社の創建の由来にかんがみその名称を踏襲したのであつて、靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない」

「靖国神社は、特定の教義をもち、信者の教化育成をする等宗教的活動をしてはならない」

という法案の内容を受け入れられなかったのだ。

読んでわかるよにこれらの條項は、政教分離原則に抵触せぬように工夫されて法案に入れられたものだった。つまり、靖國神社は「うちは宗教だ。宗教だから宗教活動をする なぜ宗教活動を中断せよというのか」と猛反発したわけだ。

当の靖國神社から嫌われたのなら、法案が通るはずがない。ついに、1974年、衆院で強行採決までしたのに参院で蹴られ、完全に廃案となってしまった。

考えてみれば無茶な話しである。政教分離原則という憲法に書かれた基本概念を靖國神社は「うちだけ別扱いにして、宗教のまま宗教施設として国家が護持しろ」と要求してたわけだ。そんな話、通るはずがない。

いま僕たちが靖國参拝論争でよく耳にする「公的参拝」とか「私人か公人か」という議論は、三木首相が1975年に靖國参拝した時に「私的参拝」と言明したことに端を発する。

保守派はこの三木発言を「靖國問題を複雑化させた元凶」と叩くわけだけども、三木の気持ちも考えてやれと思う。靖國神社法案はこの発言のたった半年前に靖國神社の「うちは宗教だ!宗教として国家が守れ!」というファナティックな主張で廃案になっている。そんな状況で「公的参拝です」なんて言えるわけなかろう。

つまり、靖国神社問題とは「歴史認識」なんていう認識論争の前に、「政教分離原則違反じゃねーの」という憲法論こそが本質なんだ。

逆にいえば、たといA級戦犯を分祀しようが、首相が「15年戦争はクソ戦争。あんな侵略戦争やった日本は最悪」と叫ぼうが、「一宗教施設に首相が参拝していいの?」「それって憲法違反じゃね?」って問題は残る。つーかその問題こそが最大のポイントなんだ

なのになぜか、左右両陣営とも「歴史認識」だけで靖国神社問題を語りたがる。うんなことどーでもいいんだ。で、もっと頭の悪い奴になると「中韓が騒ぐからだー」とか他人のせいにする。他人のせいにしてんじゃねーよ。話をややこしくしてんのは靖國神社じゃねーか。

今年も8月がやってくる。あちこちで左右両陣営の馬鹿たちが「歴史認識」こそが靖國の根幹であるかのように話すんだろう。しかしそれらは悉く欺瞞だ。だれが「哀悼の誠」を妨げているのか、そろそろ冷静に見極める時期だろう。

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