ジュンク堂の決断について

推敲なしに思うままに書く。怪しゅうこそ物狂おしけれ。

さて、ジュンク堂が、政権批判本(まあ選書の内容を見れば政権批判本というよりも「民主主義について解説する入門書籍」ではあるが)の特設コーナーを撤去したという。

朝日新聞の報道によれば、ジュンク堂非公式のTwitterアカウントが、「参院選まで戦う」とツイートしたところ、「安倍政権を闘う相手に想定しているとして「選書が偏向している」といった批判が続出した。」ため、選書コーナーを撤去するに至ったそうな。

Give me a break.  Aren’t we living in the 21st century?  

いやほんまに。素直にこの嘆息が出た。文字どおり、この言葉しか浮かばなかった。

2015年にもなって、「出版の自由」の概念とか、その概念はとりもなおさず「時の政権を批判する権利」を絶対的に擁護するために生まれたのだとか、書店が反政権運動の前衛に立つのはどこの国でも当然のことだとか、中学の公民レベルの話をせねばならぬかと思うと、気が重くなる。

もうほんまに、Give me a break と叫びたい。

ただ確かに、企業としてのジュンク堂の判断は仕方ない面もある。「非公式アカウント」なるものが、「我々」などという言葉を使いあたかも社を代表するかのような言辞を弄することに対しては、社として、厳格な懲罰を下す必要はあろう。

しかし、しかしである。

その懲罰の結果、あるいは対処の結果、「わが国の首都を代表する大型書店から政権批判本の選書コーナーが撤去された」というのは、あまりにもでかい。

その点から、ジュンク堂の判断は、稚拙に過ぎると断ぜざるをえない。書店のレゾンテートルを自己否定しておる。「羹に懲りて膾を吹く」という言葉があるが、ジュンク堂の判断は、「物を噛むのがめんどくさいから、羹も膾も味噌も糞も一緒に捨ててしまう」ような判断でしかない。噛むのをいとおて羹も膾も味噌も糞も捨て去れば、いずれ飢えるしかなかろう。これじゃ子供の使いだ。

というか、本件は、何もかもが子供じみているのである。

本件に関し、アホどもは、「ヘイト本を撤去せよという声があったのだから、ジュンク堂への抗議も当然である」という。

どうやらそれでダブスタの指摘をしているつもりらしい。

つまり、「ヘイト本の撤去」が正当ならば「政権批判本の撤去」も正当だろうと言いたいわけだ。

アホかと。ボケかと。

「撤去と撤去で同じじゃねーか」「ヘイト本の撤去を求めるなら政権批判本の撤去に文句つけるなよー」

こんなのダブスタの指摘かね?

もしこれが、ダブスタの指摘として成立しうるなら、「スパゲティを食べるのに箸を使うなフォークを使え。」と注意していた人が、次の機会に、「茶碗に盛られた飯を食うのに、フォークを使うな、箸を使え」と注意するのを見て、「フォークならフォーク、箸なら箸と、はっきりしろ。」と指摘するキチガイみたいな理屈も、「ダブスタの指摘」として成立してしまうだろう。

おおよそ子供じみているのだ。

で、アホどもがことほど左様に子供じみているのなら、こっちも子供に解説するつもりで、「書店が守る自由」というものについて、解説せんといかん。

つーかもう結論から書こう。いろんな倫理的な側面とか、歴史の経緯とかそんなこと飛び越して、結論だけ書こう。めんどくさい。

言論の自由とは、畢竟、「政権批判の自由」なのだ。

で、あればこそ、大概どの民主主義国の憲法にも出版の自由や表現の自由についての規定があるわけだ。で、民主主義国家が、他のどの政体より幾分かマシである理由は、この「政権批判の自由」を体制内に組み込んでいるからに他ならない。

極端なパターンを考えてみればいい。「政権批判の自由は完全に守られている。時の政権に対する批判であれば、それが出版であれ街頭でのデモであれなんであれ、完全に許されている。しかし、その他の表現には規制が有る」という状態と、「あらゆる表現はその内容や形態を問わず許されているが、時の政権への批判だけは絶対に許されない」という状態とを。

無論、両方とも、すごく「不自由」な状態ではある。しかし強いて言えば、前者の方が「自由」ではないか。そして、後者の状態は「許可されている表現」でさえ、徐々に徐々に、「政権批判の恐れあり」として萎縮していく可能性さえ秘めていることは容易に想像できはしないか。

ちんこまんこを好きに晒せるのが表現の自由ではない。いや、厳密に言えば、ちんこまんこを好きに晒せたところで、政権批判については規制されるのであればそれは「表現の自由」とは言えない。

ちんこまんこを晒せるかどうか、児童ポルノがbanされるべきかどうかというおなじみの「表現の自由」についての議論のネタは、「表現の自由」にとっては外縁部の議論に過ぎないのだ。表現の自由にとっての一丁目一番地は、「政権批判が自由になし得るかどうか」なのだ。

この点において、ジュンク堂は、やはり「踏み越えてはいけない一線を踏み越えた」と言わざるをえない。

一方、ヘイト本撤去を求める声はどうか。

無論、ヘイト本は政権批判を旨とするものではない。と、こう指摘したからとて、「だから撤去して当然」というのではない。さらにそれを通り越して、「ヘイト本は積極的に排除されるべきだ」と言いたいのだ

いろんなことをまるっと捨てて本質だけ結論だけを述べた「言論の自由とは畢竟、政権批判の自由だ」という立場に立つと、ヘイト本にはこの「政権批判の自由」を侵犯する側面があることが見えてくる。

現政権がヘイト政権だというのではない。

ヘイト本というかヘイトスピーチというものは、「ある特定のセグメント(それは往々にして先天的に付与された本人の選択では如何ともしがたいもの)に属する人々の権利を抑制し、あるいは共同体から放逐せんことを主張するもの」だ。その内容が倫理的に問題だからダメなのではないのだ。明確に、他人の権利を侵害するものゆえにダメなのだ。

ヘイトスピーチで心が傷つく人がいるからダメとかどうでもいい。心が傷つく表現など、ヘイトスピーチ以外でもいくらでもある。しかしヘイトスピーチがダメなのは、繰り返しになるが、心を傷つけるとかそんなヤワな話ではなく、特定の人々の権利を阻害するものゆえダメなのだ。およそ、民主社会では許容できぬものなのだ。

泣こうが喚こうが、民主社会というものは、「俺とお前は全く同一の権利を有している」という前提に立っている。この前提を切り崩してしまうものだから、ヘイトスピーチは許容することはできず、したがって、書店に置くこともまかりならんのだ。

と、考えると、「ヘイト本を置くな」と「政権批判本を撤去するな」は矛盾するどころか、ぜひとも積極的に並立して主張し続けねばならぬと言えなくはないだろうか。

この両者は、「民主社会というOSのカーネル部分をメンテナンスしろ」という叫びなのだ。

あー、一気に書いた。

つーかモッペン言うけど、なんで2015年にもなって、こんな初歩的なこと言わんといかんの?

追記

はてブのコメントなどを読むと、「ジュンク堂の企業としての判断は、勝手なことをした従業員への対処なので、問題なかろう」という趣旨のコメントがある。

よく読め。バカ。

ジュンク堂が、当該の不埒な従業員を懲戒することに何ら異を唱えておるのではない。ちゃんと、「それは当然」と書いておろうが。

この不埒な従業員は、偽計業務妨害を働いたと言っても過言ではない。ちゃんと指導せんといかん。絶対ダメな奴だ。

しかし、「当該従業員が非公式アカウントで宣伝した選書コーナーを撤去する」というのが、その従業員への懲戒として正しい行為なのか?

というか、正しいとか正しくないの前に、そもそも関係あるのか?

会社を代表する立場にもないのに、会社を代表するかのような言辞を弄したわけで、偽計業務妨害と言われても仕方なく、場合によっては(この場合は金銭的な損害が出ていないため対象にならんだろうが)諭旨免職に成っても文句は言えんだろう。

だが、当該コーナーが設営されたことそのものは、「会社の企画」であったはずだ。当該従業員が勝手に設営したものではあるまい。当該従業員が勝手な振る舞いを行ったのは、「宣伝」のみだ。であるならば、当該従業員が利用したTwitterアカウントの凍結で、対外的には十分だし、その従業員に今後勝手な宣伝行為はせぬよう指導して内向きには十分だろう。何も、その従業員が勝手な宣伝行為を行う以前から存在していたコーナーを撤去する必要は一切ない。

この「関係ないのに、余計なことをする」ことこそが、怖いの。ネットイナゴのアホどもがジュンク堂に電話したことが怖いのではないの。そのクレームを受けて、「せんでもいい対処をした」「そういう判断が動いた」思考回路が怖いの。

その思考回路こそが、アイヒマン的なものもであり、全体主義を生むものだ。

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